2014年11月6日木曜日

passing

きそがわをひたすら歩いてみた
川はあちらからこちらへ、過ぎてゆく

過ぎている。

自然からみたら自分も過ぎている、
そんな過ぎているなかで、写真でつながれる気がする。
あちらがわとこちらがわで、ハイタッチできる。

光が集まったその一点は、フィルムに焼きついている。
passing=fixing


2013年12月9日月曜日


2012年8月8日水曜日

photodrawing [写真で描く]


撮影はいつも散歩の延長にある。

いつも通る道、はじめての地、そこでは、光や風の発見、驚き、
細やかな光を意識し、出合い、向き合う。もし、この時間が写真の
すべてであるというならば、すてきな風景に出合えばよいだけである。

しかし、写真として仕上がったものを見た時、違う意識が芽生える。
写真の中でしか見られない景色。撮影時に意識できなかったものが、
写真の中にあらわれてくる。

そのささやかな景色を切り取り、描くように紙の上へ配置する。
紙の余白と切り取られた写真は、そこに定着した表情をあらためて意識させる。


 写真とは印画紙へ定着した光である。
 目では意識できなかったその写真を作品にする。  





















photodrawing
2011

C-print ,typewriting paper
210×210 mm

2011年6月22日水曜日

牧野富太郎

人の人生で、自然に親しむというほど有益なことはありません。
人間はもともと自然の一員なのですから。
自然にとけこんでこそ、はじめて生きているよろこびを
感じることができるのだと思います。
自然に親しむためには、まずおのれを捨てて自然の中に飛び込んでいくことです。
そして私たちの目に映じ、耳に聞こえ、はだに感ずるものをすなおに観察し、
そこから多くのものを学びとることです。

2011.01.15/高知県立牧野植物園にて




幼い頃、祖母は芝生の庭にござを敷き、私を乗せ草むしりをしていたそうです。
きっと小さな手ではこの芝生が、チクチクと、まるで稲のように感じていたのかも知れません。




2011年2月16日水曜日

空の断層

目に見えている青は、空なのか。
不確かな感覚をつねにもち、空を見上げている。

太陽の放った光は、ここまで飛んで来る。
厚い空気層のなかを、水蒸気や塵などにぶつかり光は散乱する。
波長の短い青い光が散乱しやすいため、空は青く見えている。

その光で景色の背景は存在する。


2011年1月10日月曜日

夜と音




夜になると静けさはやってくる

耳につけていたヘッドフォンからはいつの間にか音はない
そして考え事は広がってゆく、12時をまわったころから仕事を始めることが多い、気づくと朝の仕事に影響が出てしまうと、明朝に寝床にもぐり込むことがある。


朝の気配。

いつも一つの音が、寝なければならないと教えてくれる。
新聞配達のバイクの音、いつも決まった時間に下の家々に配達にくるのであろう。
そうこうしていると、次から次へと音が目を覚ましていく、鳥たち、空たち、光たち、夜に寝静まっていたすべての生き物が、音を立てて呼吸を始める。

太陽の光に眼孔は赤い刺激をうけ、この世界では目を開くのだろう。

2010年10月14日木曜日

海にある水、河川にある水、湖にある水、運河にある水、

それぞれの水は、それぞれの風光の中に存在する。
その差異に触れることができたなら、手のひらに掬った水も
すべてつながってゆくだろう。

2010年10月3日日曜日

2010年9月30日木曜日

自然に還りたい

いつからか、そう思うようになった。果たして、どう還ったら良いのかはまだ分からない。

決まって目覚めると空を確認する。まぶしい、雨かぁ、曇ってる、青い空、、
外を歩いて、草木や鳥たち、甕のなかの金魚たち、みんなに日本語であいさつをする。
そう昔からみんな仲間だと思っている。金魚たちを「あいつら」と呼んだり、カラスを見つけると「一人おった!」と母親に伝えたり、よく「一匹(羽)でしょ」とおこられた。

でもしっくりこない、一緒にいられると思うのに。

シャッターを切る私にある人がこういった、
『今のシャッター音で、自然の光や粒子や何かをカメラを通して受けとっていた』
自然に放置された身体からじっと見つめると、向こうが今だと話しかけてくる、そこでシャッターを切る。その瞬間は、自然に立ち向かうわけでもなく、ただ手を広げて待っている。そうすると光たちを手にしている気がした。

既に自分は自然の中にいる。そこからどうやって還るのか、まだ自分は囲まれているだけだ。
手を広げても、カメラで入り込もうとしても、まだ一緒になれない。

2010年7月21日水曜日

素直

いつも素直な写真だ。

写真を見せるといつもそう言ってくださる人がいる。
素直な写真とは、ただまっすぐ物質を目前にし対峙することだと思う。
目に見えるからとらえるわけではない、目に見えないものをもこの世界からくみとる。