2011年6月22日水曜日

牧野富太郎

人の人生で、自然に親しむというほど有益なことはありません。
人間はもともと自然の一員なのですから。
自然にとけこんでこそ、はじめて生きているよろこびを
感じることができるのだと思います。
自然に親しむためには、まずおのれを捨てて自然の中に飛び込んでいくことです。
そして私たちの目に映じ、耳に聞こえ、はだに感ずるものをすなおに観察し、
そこから多くのものを学びとることです。

2011.01.15/高知県立牧野植物園にて




幼い頃、祖母は芝生の庭にござを敷き、私を乗せ草むしりをしていたそうです。
きっと小さな手ではこの芝生が、チクチクと、まるで稲のように感じていたのかも知れません。




2011年2月16日水曜日

空の断層

目に見えている青は、空なのか。
不確かな感覚をつねにもち、空を見上げている。

太陽の放った光は、ここまで飛んで来る。
厚い空気層のなかを、水蒸気や塵などにぶつかり光は散乱する。
波長の短い青い光が散乱しやすいため、空は青く見えている。

その光で景色の背景は存在する。


2011年1月10日月曜日

夜と音




夜になると静けさはやってくる

耳につけていたヘッドフォンからはいつの間にか音はない
そして考え事は広がってゆく、12時をまわったころから仕事を始めることが多い、気づくと朝の仕事に影響が出てしまうと、明朝に寝床にもぐり込むことがある。


朝の気配。

いつも一つの音が、寝なければならないと教えてくれる。
新聞配達のバイクの音、いつも決まった時間に下の家々に配達にくるのであろう。
そうこうしていると、次から次へと音が目を覚ましていく、鳥たち、空たち、光たち、夜に寝静まっていたすべての生き物が、音を立てて呼吸を始める。

太陽の光に眼孔は赤い刺激をうけ、この世界では目を開くのだろう。

2010年10月14日木曜日

海にある水、河川にある水、湖にある水、運河にある水、

それぞれの水は、それぞれの風光の中に存在する。
その差異に触れることができたなら、手のひらに掬った水も
すべてつながってゆくだろう。

2010年10月3日日曜日

2010年9月30日木曜日

自然に還りたい

いつからか、そう思うようになった。果たして、どう還ったら良いのかはまだ分からない。

決まって目覚めると空を確認する。まぶしい、雨かぁ、曇ってる、青い空、、
外を歩いて、草木や鳥たち、甕のなかの金魚たち、みんなに日本語であいさつをする。
そう昔からみんな仲間だと思っている。金魚たちを「あいつら」と呼んだり、カラスを見つけると「一人おった!」と母親に伝えたり、よく「一匹(羽)でしょ」とおこられた。

でもしっくりこない、一緒にいられると思うのに。

シャッターを切る私にある人がこういった、
『今のシャッター音で、自然の光や粒子や何かをカメラを通して受けとっていた』
自然に放置された身体からじっと見つめると、向こうが今だと話しかけてくる、そこでシャッターを切る。その瞬間は、自然に立ち向かうわけでもなく、ただ手を広げて待っている。そうすると光たちを手にしている気がした。

既に自分は自然の中にいる。そこからどうやって還るのか、まだ自分は囲まれているだけだ。
手を広げても、カメラで入り込もうとしても、まだ一緒になれない。

2010年7月21日水曜日

素直

いつも素直な写真だ。

写真を見せるといつもそう言ってくださる人がいる。
素直な写真とは、ただまっすぐ物質を目前にし対峙することだと思う。
目に見えるからとらえるわけではない、目に見えないものをもこの世界からくみとる。

2010年7月17日土曜日

これから

友人と手紙で話すこと

悶々とする今の自分。自分にできることとはなにか、今までなにをしてきたのか、これからどうなりたいのか。

彼女はこういった
今はずっとは続かない、人生の中の短い期間だ。

身の回りの変化に自分が取り残されてしまったように思うことがある。どうにかここから抜け出したい、どうにかなりたい、

自分が何者でありたいのか、ひとつづつ磨きあげていきたいと思う。

2010年5月5日水曜日

内包する世界

今を生きている、そう感じる。


カメラを持って家の近くをあてもなく自転車で出かけるのが好きだ。
自転車を走らせればすぐ海にも行ける、高台に上れば町を一望できる、
そんなところで私は生きている。

家の隣に畑、コンビニまで車で5分、無人駅、部屋から海が見える
ここにある全てが当たり前。
しかし、毎日そこでは全てのものが生きている証を残すかのように変化している
きっとその証を自分のものに、また人にも伝えたいと写真を撮る。

写真がそう感じさせる。小さな証をこれからもとり続けるだろう。


そう、私の生きている証としても。